2014年5月9日金曜日

なぜリージェント・カレッジで学びを始めたのか?

リージェントでの学びが3年を過ぎたところで、今までの学びを振り返る時間を持たせてもらっています。今回は今更になりますが、なぜ私がリージェント・カレッジで勉強をすることを決めたのかについて少し過去を振り返りながら書かせてもらえたらと思います。


先輩クリスチャンの後姿から学んだこと

牧師の長男として生まれ育った背景が私の人生に深く関わっていると思います。両親が最初に奉仕を始めた教会は宣教師から受け継いだほんの10名程度の開拓教会で、開拓の2年目に私は生まれました。その当時父は自動車工場で夜勤をしながら、会堂建設を進める教会の財政を支え、牧師として働いていました。小学校入学と同時に2つ目の開拓教会に家族で移動、教会の成長のために必死に仕える父と母の後姿を見て育ちました。金銭的にはとても厳しい状況だったと思いますが、両親の牧会の中で奇跡と思えるような不思議な体験もいくつか経験しました。何よりも新しい教会堂が建って喜ぶ両親や、教会に新しい人が加えられて神の家族が大きくなっていく経験は深く記憶に焼き付いています。10歳の時に両親の異動により、関東から関西に引越しをして状況は大きく変わりましたが、両親の献身的な牧会を通して、多くの人が人生を神さまによって変えられるのを見てきたのは、私の牧会に対する大きな動機付けとなっています。

10歳の時に家族と一緒に移動してきた教会はとても大きな教会でした。地方にある30人くらいの家族的な教会から、都会の150人を超える組織的な教会に移ったのは、子供ながらに刺激的な経験だったと思います。同世代の友人が多く与えられ、教会には頼もしい青年の先輩クリスチャンがたくさんいました。11歳で受洗、14歳の時に霊的なリバイバルを経験し、15歳(高校1年生)の夏には教団の宣教大会で献身の決心をすることができたのは、背後に両親と素晴らしい先輩クリスチャンの方々の励ましと祈りがあったことを覚えます。何よりも活き活きと教会生活を楽しんでいる青年の方々の姿は私にとってクリスチャンとしての生き方のモデルとなりました。『先輩クリスチャンから頂いたたくさんの恵みを、私自身も同じように後輩に渡していく』というのが私のライフワークの一部になりました。そしてその教会は積極的に献身者を外に送り出すビジョンを持った教会で、何人もの先輩クリスチャンが献身をし、神学校に進み、牧師もしくは牧師夫人としての働きに携わっています。


社会人生活を通して

15歳で牧師になる決心をしたものの、ストレートで神学校に行くことはせずに、大学を卒業してから社会人生活を経験し、将来のための準備をしようと思いました。その理由は2つありました。一つ目は社会人経験のなかった父親とは違った経験、歩みをしてみたいと思ったこと、二つ目は率直に言って自分には牧師を生涯の仕事とする自信が無かったからでした。日本人的に言うと、最初の理由は建前(たてまえ)で、後の理由は本音(ほんね)だったと思います。1代目クリスチャンである父親と母親と自分を比べると、伝道に対する熱心さや献身に対する真剣さが自分には足りないと、ある意味で劣等感を持っていました。開拓の大変さも見てきましたので、とにかく一人前の社会人になれば自信もついてくると考えていたと思います。せっかくだったらとことん厳しい環境で社会人を経験しようと思い、上京して成長中のベンチャー企業に就職しました。ベンチャー企業での営業職としての仕事はとても厳しいものでした。営業成績が出ない間はクリスチャンであるというバックグラウンドですら上司や先輩から否定される経験をしました。当時の上司から頂いた「お前の見積もりは天使が書いたのか!」という言葉は今でも脳裡に焼き付いています。ある意味、世間知らずだった私をとことん訓練してくれました。同時に、社会で働くことの大変さと厳しさを知り、働きながら教会で奉仕されている社会人クリスチャンに対して心から尊敬の思いを持つことができる貴重な経験でした。


献身の難しさとリージェントとの出会い

社会人5年目を過ぎた頃から神学校に進む道について具体的に考えるようになりました。聖書や神学の学びは勿論ですが、神学校において「とことん自分の内面と向き合いたい」と思わされるようになるのもこの頃のことです。出身教会からは何人もの献身者が牧会の現場に出ていますが、様々な事情により、途中で牧師という仕事を辞めざるを得ないケースも見てきました。特に中学高校時代にお世話になった身近な先輩方が牧会に出て数年でそのような状況になってしまうのを見て、知識面の準備よりも、心や霊性、感情といった部分の準備が私には必要だと思いました。長年にわたって抱え続けている自分の弱さや足りなさを深く取り扱ってくれるような勉強をしたいと考えていました。そんな時にジェームス・フーストンの「喜びの旅路」と「神との友情」の2冊の本に出会うことができました。リージェント・カレッジという名前を聞いたことがあった程度でしたが、フーストン教授の本を読んだ時に直感的に「これだ」と思いました。うまく言葉には表せませんが、何か無理に肩に力が入った状況から解放されるような、ありのままの自分を受け止めてもらえたような感覚を持ちました。それから社会人生活の傍ら、リージェント・カレッジの授業や礼拝メッセージをダウンロードして聞くようになりました。その中で2006年に行われた牧師カンファレンスのロッド・ウィルソン教授(現・リージェントカレッジ学長)の3回にわたる講演(Movements of Grace: Wisdom, Weakness & Woundedness)を聴いた時に「ここで学びたい」と決心することができました。「弱さ」や「傷つきやすさ」に素直に向き合い、神との対話の中、そしてクリスチャンとの関係の中でそれらを取り扱っていく。クリスチャンにとって大切な聖化と変革のプロセスを学びにバンクーバーに渡ることを決意しました。


リージェントで3年経ってみて

あっという間の3年間でした。1年目は勉強についていくのがやっとで、2年目からは教会でのインターンシップと学びの両立に苦労し、3年目にしてやっと勉強したい内容を深く学ぶことが出来始めたという感じです。「Who am I?」(自分は何者か?)について深く問い続けるカリキュラムは自分の内面の現実を知るための助けとなりました。牧会学修士(MDiv)の1段階目の必須授業で問われた「献身の招命」は今までの人生に起こった重要な出来事と献身の関係について考える貴重な機会となりました。カナダに渡る前には霊性の神学(Spiritual Theology)や市場神学(Marketplace Theology)に興味がありましたが、世界のキリスト教(World Christianity)から日本への文脈付け(Contextualization)を考えるような学びに興味が移りつつあります。1年目の学びで出会うことのできた三位一体神学を個人の霊性と教会論にどのように適用できるのか?という問いに興味を持っています。その上で、福音をどのように日本人の心に寄り添った形で伝えることができるのか?じっくり考えたいと思います。この夏学期は牧会学修士(MDiv)の総まとめを行い、卒業までの秋学期・冬学期の2学期を通して、もう一歩深い学びを進めていきたいと願っています。



















(バンクーバーでなくて、京都上賀茂の早朝の空です。日本の空もとてもいいものです)

2 件のコメント:

  1. 自分とすごく似た部分と、自分とは全く違う部分があって、当たり前なんやけどそれがすごく嬉しくて、なんだか不思議に優しい気持ちで読み終えました。生きる世界は違っても、どこかでつながっていると今も思えるのは、あの時代の共通体験があるからやな。明日もがんばろっと!

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