2014年10月31日金曜日

ケニア・ナイロビでの夏季講座

4年目の秋学期が始まって、1ヵ月が過ぎました。更新が遅くなってしまいましたが、この夏に学ばせて頂いたことを幾つかシェアさせて頂きたいと思います。

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12日から28日までケニアのナイロビで開講された、Into Africa: Exploring Theology and Ministry in Nairobi, Kenyaの授業を受講しました。このコースは文字通り、アフリカまで行って、アフリカのクリスチャンやキリスト教について学ぶコースです。ナイロビ郊外にあるAIUAfrican International University)をベースにアフリカの著名な神学者の授業と現地の教会訪問も含めたフィールドワークがセットになっています。20年間以上、ケニアの大学で教えていた経験を持つDiane Stinton教授がコーディネートしてくださいました。
アフリカを訪れるのは2回目でしたが、今回はとても濃いそして凝縮した時間を過ごさせてもらいました。2週間のスケジュールの中でゲストによる講義が11回、訪問を中心としたフィールドワークが9回と滞在期間中の午前と午後の予定がほぼ埋まりました。中には幾つかの衝撃的体験もあり、お風呂のシャワーのお湯が出ない、スラムで出会った見知らぬ人に手を握られて一緒に歩くことになる、帰国2日前に(恐らく)食中毒になって倒れる・・・Stinton教授からは『これは旅行の予定に全く入っていなかったけど、これもアフリカよ』と言われました・・・等々も衝撃的でしたが、何よりも人口の約80%がクリスチャンというクリスチャン大国のケニア(アフリカ)の神学を体験したのは大きな衝撃でした。

いくつかの貴重な経験を共有させて頂きます。


今回の授業では、多様なバックグランドを持つ神学者の方々から特別講義を受けることが出来ました。プロテスタントだけではなく、カトリックやアングリカン出身の先生方、そしてAICAfrica Instituted Churches)の背景を持った先生から講義を受けられるのは貴重な経験となりました。

オラバトア神父の出会い   
オラバトア教授はイエスズ会の神父であり、ナイジェリア出身の神学者です。ナイロビにあるヘキマ大学で教えています。福音の文脈化についての専門家であり、講義の中で、神父の家族の背景であるナイジェリアの土着宗教の体験を共有してくださいました。神父の母親は熱心な土着の宗教の信者で、神父は度々母親が宗教行事によりトランス状態に入るのを見て育ってたそうです。そして彼は十代で家の近くにあったカトリック教会を通してカトリック信者となりました。驚いたことに、オラバトア神父は「カトリック信者になったあと、何も家族に対して大変なことはありませんでした。」と言います。神父は著作の中で、「キリスト教に改宗してから、私はアフリカの宗教の引き継いできたものの素晴らしさを再発見しました。そしてそれは私がアフリカのクリスチャンとして生き、祈る上で新しい方法を教えてくれます。回心してから長い時間が経ちましたが、アフリカの宗教の霊性と、キリスト教の霊性は一緒となり、意味深く、豊かで深い満足を与えてくれます」と言っています。(注1
どうやってキリスト教と土着の宗教を和解させることができるのでしょうか?私は神父に土着の宗教の伝統と自身のキリスト教信仰をどうやって折り合いをつけることができるのか質問をさせて頂きました。神父は正直に話してくれました「確かに葛藤はあります。時々、私は実家でこの土着の神に捧げられたご飯を食べていいのだろうか?と問います。これは使徒パウロも経験したことでしょう。でも考えるということは生きる証しです。私はカトリックです。私は私のクリスチャンとしてアイデンティティや意識をイェスキリストの光、いのち、死、そして復活の経験の中に見出します」キリスト教の伝統に留まりながらも、土着の宗教、伝統的な文化や霊性を完全に切り離すことなく、キリストにあって関わり続ける。そんなことが本当に可能なのか?と日本人クリスチャンとして生きてきた私にとっては簡単に理解することは難しい、不可思議な領域ですが、単なるシンクレティズム(習合)とは異なる新たな道を見いだしたような気がします。オラボトア神父は自らの伝統的な霊性と真正面から向き合うことについての励ましを私に下さいました。

福音とは何か?

ケニアでの授業はAIUの博士課程の学生5名もチームに加わりました。AIUの学生の方々からも、授業での質問、ディスカッション、論文の発表を通して多くの刺激を頂きました。メンバーのある学生(学生と言っても、彼は4,000人規模の教会の副牧師でした)の討論の中での福音に関する一言が心に刺さりました。

「もし福音が、単に私の魂をだけを救い、私に永遠のいのちを与えるだけのものだったら、そんなのは福音と言えない。私はそんな福音を正直欲しいとは思わない。イエスキリストの福音は私の大切な家族、兄弟、友人にとっても福音であるべきだし、私と彼らを切り離すものであってはいけない。」

アフリカのクリスチャンは西洋の個人主義的な価値観に対して「違う」とはっきり言います。福音についても、単に個人個人の救いであり、課題といった限られたものではなく、家族(部族)や友人を、そして社会を変える力のあるものだと信じています。




フィールドワークではアフリカで
2番目に大きいと言われるスラム(キベラ地区)を2回訪問する機会がありました。他のアフリカの国のように、ケニアにも貧困や腐敗、エイズのような疫病といった社会的な課題がたくさんあります。それらの課題に対して、クリスチャンがどのように積極的に関わっているのかを知る機会となりました。キベラ地区には60万人の人がたった3平方キロメートルの場所に住んでいると言われています。小さな泥の壁の家に住んでいて(家賃は月500円)、電気や下水道はありません。こんなに大変な環境ですが、多くの家族は子だくさんで、子供たちは十分な教育を受けることが出来ません。私たちはキベラ地区の中にある「希望と回復センター」という教会が運営する子供の学校に訪問しました。この学校では子供たちに昼食を与え、勉強を助けています。なぜなら多くの子供たちは栄養を得ること、勉強することに課題を抱えているからです。十分な勉強が出来ないことはケニアにおいて一般的な仕事に就くための最低条件である、公用語である英語とスワヒリ語の会話と読み書きができるようになる機会を失うことになります。私はサムという子の家に訪問する機会がありました。彼は小さい時にお母さんを失くしていて、泥の家にお父さんとおばさんと一緒に住んでいました。サムはこのセンターで勉強を続けることが彼の夢であることを話してくれました。この「希望と回復センター」をサポートしている教会(ナイロビチャペル)は貧困に対する働きを教会の重要な宣教の業として定義しています。なんと教会のインターン生(訓練生)は学びのプログラムの中で少なくとも4日間をキベラの家にホームステイすることが必要だとのことです。(何人かのインターン生がトイレがなく、治安が悪く、疫病が蔓延している地区での経験を分かち合ってくれました。)クリスチャンにとって社会を知り、経験すること、特に追いやられた人々や彼らの必要について知ることはとても大切です


ここに挙げさせて頂いたのはプログラムのほんの一部で、上記に加えて多くの貴重な経験をさせて頂きました。そしていくつかの経験から得た問いや示唆については、どうやって理解し、自分のなかで消化して、今後の牧会に役立てていくか、祈りを持ってゆっくり考え続けているところです。2週間のケニアでの貴重な経験で何を学んだでしょうか。福音の文脈化(Contextualization)というテーマはアフリカの神学者や牧師が今まで真剣に取り組んできたように、日本という土壌に福音がどのように根付くのかについて更に深い考察が必要だと思いました。アフリカで西洋とは異なる形のキリスト教を見させて頂いた経験を通して、今まで私が育ってきた環境、福音派と呼ばれるキリスト教は16世紀のヨーロッパでの文脈化を経て、北アメリカとヨーロッパにおいてその文化と生活に土着化したキリスト教にルーツを持っていることを改めて覚えさせられました。そして教会が本当にイエスキリストの福音を伝えるためには、社会や地域へのコミットメント(責任)をどのようにしていくのかという問いもあります。日本ではよく社会派か福音派か?という議論がありますが、その両方を統合しているアフリカの教会から一つのモデルを見させてもらったと思います。この秋からMDiv(牧会学修士)を終え、ThM(神学修士)のプログラムで福音の文脈化というテーマでキリスト論に絞って学びを進めていく予定です。卒業そして帰国までのあと半年の学びがとても楽しみです。















Mavuno教会に向かうチーム、ケニアの空の広さに圧倒されます)


1:A. E. Orobator, Theology Brewed in an African Pot: An Introduction to Christian Doctrine from an African Perspective (Nairobi: Paulines Publications Africa, 2008), 10.

2014年5月21日水曜日

Christian Imagination(キリスト教と芸術)

冬学期(2014年1月-4月)に履修した科目にChristian Imagination(直訳:クリスチャンの芸術的想像力)というアート(芸術)の授業がありました。リージェント・カレッジにはChristianity and the Artsという専攻があり、毎年15-20名の芸術家の学生がこの授業を履修しています。音楽以外の芸術には中学校以来ほとんど触れていない自分が、まさか大学院で芸術系のクラスを履修するとは思いもよりませんでしたが、将来教会を牧会する上で何かのヒントをもらえたらと思って履修してみました。

クラスの学生の約8割がプロの芸術家という授業ですが、Christian Imaginationとは何か?について神学的に深く掘り下げる授業と、実際にいろいろな種類の芸術を体験するというフィールドワークがセットになった構成になっています。先生はBBCのプロデューサーだったIwan Russell-Jones教授で、25年に渡るドキュメンタリーフィルム制作の経験を元に芸術とクリスチャン信仰の関係について、詳しく講義してくださいました。フィールドワークとして地元の彫刻家であるDavid Robinson氏のギャラリーや制作スタジオを訪問して、ご本人から話を聞いたり、舞台監督であり、演劇家でもあるRon Reed氏の舞台を鑑賞した後に、ゲスト講師として舞台芸術とキリスト教について講義をしてもらったりと、とても刺激的で興味深い内容の授業がたくさんありました。他にも、音楽家、作曲家のゲストスピーカーが来られましたが、芸術家であるクラスメイトからもディスカッションを通して様々な示唆や視点をもらうことができ、本当に有意義な機会となりました。

本授業では、1.芸術作品のリフレクション(感想をまとめる)・・・10%、2.Creative Project (実際に何か芸術作品を作ってみる)・・・45%、3.アカデミックペーパー(芸術に関する神学論文)・・・45%の3種類のアウトプットが求められます。2つ目のCreative Projectは、何とGaliano島での合宿(2泊3日)で発表ということで、Galiano島にある修養施設に泊まり込んで、それぞれの作品の発表会をしました。芸術作品と言われても、何をしていいのか全くノーアイデアの私でしたが、今回は昨年10月に友達に連れて行ってもらったチリワックの木材屋で出会った、Woodturningに挑戦しました。


もちろん、Woodturningは生まれて初めての体験だったので、チリワック在住のインストラクターの先生に1対1で丁寧に教えてもらいながら、何とか作品と言えるレベルのものを作ることが出来ました。かんなで削って、やすりで磨いていくうちにメイプルのとても綺麗な模様が出てきて、改めて自然の素晴らしさを作品を通して教えてもらうことが出来ました。

論文の方ですが、アート(芸術)と教会をテーマにして、いかにクリスチャンがImagination(芸術的な創造性)を深めることが出来るかという内容について書かせてもらいました。今回まとめさせてもらった内容をこちらのページに掲載させて頂いています。芸術というと音楽以外は福音宣教の二の次に取り扱われがちですが、創造主である神ご自身が素晴らしい芸術家であり、人間もその型として芸術的な能力を与えられていることをまず理解することが大切です。文化が深く関係する芸術という分野においても、教会というコミュニティを通じてクリスチャンが活躍し、喜んで経験していく場を作っていくことが出来たらと願っています。





















ちょっと天気が良くなかったですが、Galirano島の海と空です

2014年5月9日金曜日

なぜリージェント・カレッジで学びを始めたのか?

リージェントでの学びが3年を過ぎたところで、今までの学びを振り返る時間を持たせてもらっています。今回は今更になりますが、なぜ私がリージェント・カレッジで勉強をすることを決めたのかについて少し過去を振り返りながら書かせてもらえたらと思います。


先輩クリスチャンの後姿から学んだこと

牧師の長男として生まれ育った背景が私の人生に深く関わっていると思います。両親が最初に奉仕を始めた教会は宣教師から受け継いだほんの10名程度の開拓教会で、開拓の2年目に私は生まれました。その当時父は自動車工場で夜勤をしながら、会堂建設を進める教会の財政を支え、牧師として働いていました。小学校入学と同時に2つ目の開拓教会に家族で移動、教会の成長のために必死に仕える父と母の後姿を見て育ちました。金銭的にはとても厳しい状況だったと思いますが、両親の牧会の中で奇跡と思えるような不思議な体験もいくつか経験しました。何よりも新しい教会堂が建って喜ぶ両親や、教会に新しい人が加えられて神の家族が大きくなっていく経験は深く記憶に焼き付いています。10歳の時に両親の異動により、関東から関西に引越しをして状況は大きく変わりましたが、両親の献身的な牧会を通して、多くの人が人生を神さまによって変えられるのを見てきたのは、私の牧会に対する大きな動機付けとなっています。

10歳の時に家族と一緒に移動してきた教会はとても大きな教会でした。地方にある30人くらいの家族的な教会から、都会の150人を超える組織的な教会に移ったのは、子供ながらに刺激的な経験だったと思います。同世代の友人が多く与えられ、教会には頼もしい青年の先輩クリスチャンがたくさんいました。11歳で受洗、14歳の時に霊的なリバイバルを経験し、15歳(高校1年生)の夏には教団の宣教大会で献身の決心をすることができたのは、背後に両親と素晴らしい先輩クリスチャンの方々の励ましと祈りがあったことを覚えます。何よりも活き活きと教会生活を楽しんでいる青年の方々の姿は私にとってクリスチャンとしての生き方のモデルとなりました。『先輩クリスチャンから頂いたたくさんの恵みを、私自身も同じように後輩に渡していく』というのが私のライフワークの一部になりました。そしてその教会は積極的に献身者を外に送り出すビジョンを持った教会で、何人もの先輩クリスチャンが献身をし、神学校に進み、牧師もしくは牧師夫人としての働きに携わっています。


社会人生活を通して

15歳で牧師になる決心をしたものの、ストレートで神学校に行くことはせずに、大学を卒業してから社会人生活を経験し、将来のための準備をしようと思いました。その理由は2つありました。一つ目は社会人経験のなかった父親とは違った経験、歩みをしてみたいと思ったこと、二つ目は率直に言って自分には牧師を生涯の仕事とする自信が無かったからでした。日本人的に言うと、最初の理由は建前(たてまえ)で、後の理由は本音(ほんね)だったと思います。1代目クリスチャンである父親と母親と自分を比べると、伝道に対する熱心さや献身に対する真剣さが自分には足りないと、ある意味で劣等感を持っていました。開拓の大変さも見てきましたので、とにかく一人前の社会人になれば自信もついてくると考えていたと思います。せっかくだったらとことん厳しい環境で社会人を経験しようと思い、上京して成長中のベンチャー企業に就職しました。ベンチャー企業での営業職としての仕事はとても厳しいものでした。営業成績が出ない間はクリスチャンであるというバックグラウンドですら上司や先輩から否定される経験をしました。当時の上司から頂いた「お前の見積もりは天使が書いたのか!」という言葉は今でも脳裡に焼き付いています。ある意味、世間知らずだった私をとことん訓練してくれました。同時に、社会で働くことの大変さと厳しさを知り、働きながら教会で奉仕されている社会人クリスチャンに対して心から尊敬の思いを持つことができる貴重な経験でした。


献身の難しさとリージェントとの出会い

社会人5年目を過ぎた頃から神学校に進む道について具体的に考えるようになりました。聖書や神学の学びは勿論ですが、神学校において「とことん自分の内面と向き合いたい」と思わされるようになるのもこの頃のことです。出身教会からは何人もの献身者が牧会の現場に出ていますが、様々な事情により、途中で牧師という仕事を辞めざるを得ないケースも見てきました。特に中学高校時代にお世話になった身近な先輩方が牧会に出て数年でそのような状況になってしまうのを見て、知識面の準備よりも、心や霊性、感情といった部分の準備が私には必要だと思いました。長年にわたって抱え続けている自分の弱さや足りなさを深く取り扱ってくれるような勉強をしたいと考えていました。そんな時にジェームス・フーストンの「喜びの旅路」と「神との友情」の2冊の本に出会うことができました。リージェント・カレッジという名前を聞いたことがあった程度でしたが、フーストン教授の本を読んだ時に直感的に「これだ」と思いました。うまく言葉には表せませんが、何か無理に肩に力が入った状況から解放されるような、ありのままの自分を受け止めてもらえたような感覚を持ちました。それから社会人生活の傍ら、リージェント・カレッジの授業や礼拝メッセージをダウンロードして聞くようになりました。その中で2006年に行われた牧師カンファレンスのロッド・ウィルソン教授(現・リージェントカレッジ学長)の3回にわたる講演(Movements of Grace: Wisdom, Weakness & Woundedness)を聴いた時に「ここで学びたい」と決心することができました。「弱さ」や「傷つきやすさ」に素直に向き合い、神との対話の中、そしてクリスチャンとの関係の中でそれらを取り扱っていく。クリスチャンにとって大切な聖化と変革のプロセスを学びにバンクーバーに渡ることを決意しました。


リージェントで3年経ってみて

あっという間の3年間でした。1年目は勉強についていくのがやっとで、2年目からは教会でのインターンシップと学びの両立に苦労し、3年目にしてやっと勉強したい内容を深く学ぶことが出来始めたという感じです。「Who am I?」(自分は何者か?)について深く問い続けるカリキュラムは自分の内面の現実を知るための助けとなりました。牧会学修士(MDiv)の1段階目の必須授業で問われた「献身の招命」は今までの人生に起こった重要な出来事と献身の関係について考える貴重な機会となりました。カナダに渡る前には霊性の神学(Spiritual Theology)や市場神学(Marketplace Theology)に興味がありましたが、世界のキリスト教(World Christianity)から日本への文脈付け(Contextualization)を考えるような学びに興味が移りつつあります。1年目の学びで出会うことのできた三位一体神学を個人の霊性と教会論にどのように適用できるのか?という問いに興味を持っています。その上で、福音をどのように日本人の心に寄り添った形で伝えることができるのか?じっくり考えたいと思います。この夏学期は牧会学修士(MDiv)の総まとめを行い、卒業までの秋学期・冬学期の2学期を通して、もう一歩深い学びを進めていきたいと願っています。



















(バンクーバーでなくて、京都上賀茂の早朝の空です。日本の空もとてもいいものです)

2014年4月25日金曜日

3年目の冬学期が終わりました

4月20日のイースターを目前にして、やっと長かった冬学期が終わりました。3年目の冬学期は学びのペースを上げて、History of Doctrine, Missional Church (Seminar), Christian Imagination, Intro to World Christianity の4科目を受講しました。最後の2週間は3つのペーパー(論文)提出が重なり、(イースターの奉仕準備もあり)寝れない毎日が続きました。イースターも無事に終わって、今は全ての課題を終えて、成績の結果を待っているところです。年明けからとても凝縮した(濃い)4ヶ月を送ってきたので、簡単には書ききることが出来ませんが、Missional Churchの演習は3年間学び続けたMaster of Divinityプログラム(牧会学修士)の総まとめ的な授業となり、「宣教する神の教会」について学び、議論し、日本のキリスト教会の状況を踏まえたアウトプットを取りまとめる機会になりました。(英語版になりますが、授業でまとめた論文をこちらに置かせて頂いています)2015年5月の卒業までリージェントでの学びの総仕上げと日本に帰る準備を進めていきますが、4年目はテーマを絞って更に深い学びを進めていきたいと願っています。まず始めに6月にケニアのナイロビでStinton教授のInto Africa: Exploring Theology and Ministry in Nairobi Kenyaを受講予定です。これからの学びがとても楽しみです。