2011年7月31日日曜日

The Kingdom of God

7月一杯で終了した、リージェントカレッジの公開講座ですが、今日はMichael Pucci教授が講義された内容をシェアしたいと思います。

Michael Pucci教授はリージェントの夏季授業で「Owning Poverty: A Transformational Spiritual Journey」を担当されていましたが、今回は「Kingdom Transformation: The Individual and Community」という題名で講義してくださいました。
まずはじめに「The Kingdom of God(神の国)」について、マタイの福音書6章33節に「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」という言葉があるが、いったい神の国とは何なのか?目に見えない神の国をどうやって求めるのか?手に入れるのか?神の国を求めた結果は何なのか?という問いからスタートしました。

神の国を求めるときに、個人的なTransformation(変革)が目に見える結果として現れ、それはWestern Culture(西洋文化)の常識とはかけ離れたものです。西洋文化の常識は、個人のTransformation(変革)は能力の向上や、リソース(ここではお金や物質的価値)を集めること、強い組織を作り上げることにおける成功に焦点が置かれているが、聖書が語る神の国、そして個人の変革はこの世界の価値観とはまったく逆の「貧しさを身にまとうこと」です。
なぜなら神の国「Kingdom」のKingはイェス・キリストであり、神の国を求めることは、イェス・キリストのようになること、イェス・キリストの生き方に倣うことだからです。

そして、神の国を求める私たちの目標は
・霊的な枯渇
・貧しさを得ること
・ただ恵みによって救われたと自覚すること
に集約されます。
しかし、現代社会では効率と効果が重要とされるので、私たちクリスチャンも自然と「もっと良くならないと、もっと改善しないと」と考えがちです。その結果、教会の中で「良いわざ、奉仕」の経験を積み上げたり、「神さまに喜ばれること」を一生懸命にポイント稼ぎするような行動に陥る危険性があります。テモテへの手紙第一6章5節には「また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利益の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです」とパウロが警告しているとおり、神の国に生きるクリスチャンのあるべき姿を失ってしまっていることもあるのです。

それでは私たちはどうしたら、自分を根本的に変える(Transform)できるでしょうか?それは「自分自身がどこから来たか」もう一度根本に戻って考えることです。
・・・なかなか難しい講義で、うまく訳せてなくてすみません。でもこの講義を通して、とっても大切なことを教えてもらいました。私自身の話になりますが、15歳で牧師になる招命を頂いてから、「どうしたら有能な牧師になることができるか?」と問い続け、その答えを実現するために、大学で経営学を勉強し、10年間社会人として働き、教会で様々な奉仕をしてきました。「牧師という仕事は熟練技術が必要である」という考えをもとに、マネジメント、リーダーシップ、コミュニケーションの能力をどれだけ高められるかが私の重要テーマでした。能力を高め、将来の奉仕に役に立つであろう経験をたくさん積むことが、主に喜ばれることだと信じていました。しかし、この講義を通して、「神の国」の常識と「この世界」の常識はかけ離れていて、私の考え方、良いと思っていることは「この世界」の価値観に大きく影響を受けていて、それは今までの教会での奉仕の姿勢にも顕著に表れていたな・・と気づかされました。
それもそのはず、資本主義のど真ん中で営業マン、コンサルタント、中間管理職として磨き続けてきた、「成功至上主義」、「徹底的な効率化」、「モチベーションを最大化するための仕組みづくり」といったフレームワークは聖書の語る「神の国」には相容れない、対局の考え方だったと思います。 昨年から仕事を減らして、留学準備を始めてからうすうす気づいていたことでしたが、今回の講義で決定的に打ち砕かれた感じです。この世界の価値観では、教会の奉仕でさえ、いつの間にか組織を満足させ、個人を満足させることに終始してしまう。。これが今の自分の現実です。いったん自分の願い、思いをゼロリセットして神さまの声を聴く、待ち望むことが必要だと思いました。

神の国に生きるとは・・
‐お金や名誉でなく、貧しさを身にまとうこと
‐聖書の中に答えを求め続けること
‐今この時、この場所を大切に生きること(刹那的・・という意味ではなく)
‐常に自分がどこから来たか(どう救いを受けたのか)覚え続けること
といったことを実践していうことでしょうか

講義が終わってから、Michael Pucci教授と個人的に話す機会を頂きました。自分の考えていることを共有し、将来牧師になるために、どう変わる必要があるのか?という問いに対して、「Transformationは本当に時間がかかる作業です。1年2年でどうにかなるものでもなく、効率よく最前の手順で進めるものでもないし、あなた自身の心の中で、自分は何者か?なぜ牧師になるのか?どうなりたいのか?を霊的に(静思の時間で)長期間にわたって問い続ける必要があります。そしてTransformationの手段は、アラムの将軍ナアマン将軍が皮膚病を癒される話(Ⅱ列王記5章)で、一度憤慨したナアマンがイスラエルの奴隷の娘の助言を聞き入れるように、『一見、愚かに見えるような』手段を用いられることが多いので、ぜひ覚えておいてください」との助言を頂きました。
うーん、まさに課題のど真ん中を指摘頂いた感じです。Regent Collegeの冬学期には「Soul of Ministry」という牧師学修士の必須科目があり、3‐4人の学生に1名の教授がアドバイザーとしてついて、「なぜ牧師を目指すのか?」、「この時代、この社会で牧師になるとはどのような意味があるのか?」と問い続け、答えを見つけるいう百人組手的な名物科目です。1年目の学びを進めながら、この講義で得た問いをしっかり問い続けていきたいと思います。

(リージェント・カレッジ図書館 "The John Richard Allison Library" なんと完全地下です)

2011年7月20日水曜日

Public Lecture

毎週月曜日と水曜日の夜8時から、RegentCollege(リージェントカレッジ)の公開講座に出席しています。
60分の講義と30分の質疑応答で、どのレクチャーも興味深く、なかなか日本では聞けない
貴重な内容です。(雰囲気はこんな感じです↓)














その中でも、印象深かったレクチャーを上げると
・Alister McGrath教授のWhy God Won't Go Away: Reflections on the "New Atheism"
「新しい無神論についての考察」日本は自ら無神論者ですという人が多いですが、その精神や考え方について考えさせられる貴重な講義でした。
※講義の内容は無料のMP3が公開されています
http://www.regentaudio.com/RGDL4100L

・Chris Hall教授の「1+1+1=1・・三位一体のミステリーと素晴らしさ」
クリスチャンにとって理解が難しい「三位一体」について、過去から現在に至るまでの理解とそれを知ることの素晴らしさについてわかりやすく説明してくださいました。

・Grant Wacker教授のビリーグラハムから学ぶクリスチャン生活のガイドライン
ビリーグラハムの伝道人生から、
・あらゆる誘惑に負けなかったこと(単身での生活が続いたにも関わらず、スキャンダルは一切なかった)
・お金や数字に対して正直であったこと(伝道団は会計を公開し、彼の給与から使い道まで明らかにした、さらに伝道大会の参加者数を数える際も、一切誇大せず正確な数字を公表したこと)
・プライドや名誉を求めず、謙遜でありつづけたこと
→これらは、クリスチャン(伝道者にも)にとって大切なガイドラインだと思います。

・Larry Huratado教授の2‐3世紀のクリスチャンの文字や文献から学ぶその信仰
2‐3世紀のクリスチャンは当時の文字や書籍においてパイオニア的存在であった。彼らの信仰は個人用として書き写した聖書の言葉に支えられていて、2,000年近く昔の文献からその内容を知ることができる。特に、「Jesus」を指す文字には、キリストの十字架をイメージできるような象形文字に近いギリシャ語がつかわれており(実際にパワーポイントでイメージを説明)












※上から4行目右に丸で囲ってある部分が「Jesus」を指す単語
教授の説明によると、当時のクリスチャンは聖書の中でJesusという文字を見るたびに、キリストが十字架刑にかかる姿を想像したでしょうとのことです。2世紀のクリスチャンにとってはA.D.30年の出来事は現代の私たちにとって明治時代を想像するのと同様に、2,3世代前の出来事をよりリアルに思い浮かべたんだろうなと思いました。

・Roger Lundin教授の19‐20世紀詩人の神の探求
Emily Dickinsonに代表される19世紀詩人の神学的価値を探求しながら、現代の信仰とは何かを深く探る講義でした。目に見えない神をどのように信じるのか?いま私たちが暮らしている時代、国とは遠くかけ離れているイェス・キリストをどのように神の子として受け入れるのか・・・現代資本主義に組み込まれた、とっても忙しい私たちの生活ではなかなか見出すことのできない視点を、詩人が残した文献から読み取る内容でした。クリスチャンであっても「自分の中にある疑問を真剣に問い続ける」ことの大切さ(それが神を求める探求につながる)、そして新約聖書のピリピ人への手紙2章5‐8節にパウロが記した「キリストの服従に倣う」ことの大切さ(探求の答えは聖書の中にある)を学びました。
質疑応答のなかで、教授が「私たちの自己は、何個も存在するメールアカウントの中にあるのではなく、もっとも親密な人間関係の中で見出すことができる。。」とコメントされていたのが印象的です。いくつもの仮面(社会の中で作り上げた人格・・・最近の例では、Facebook、Mixi、Gmail、職場のメールアカウント、肩書きの入った名刺などなど)、を持つ私たちですが、本当の自分に心から問いかける時間がどれだけあるでしょうか? 真実な自分でありたいと心から願う教会での自分も、実は真実になりきれない部分があったり。。礼拝とディボーション(黙想と祈り)の時間が私たちの心を、真に映し出す時間になって欲しいと願います。


まだ英語修行中のため、講義の理解度は50%程度ですが、終わったあとに分からなかったところを講師に直接聞きにいけるので、とても助かります。公開講座も7月一杯で終わりますが、残り3講義も期待して出席し続けたいと思います。


(UBCのLearning Centerの勉強部屋から空を眺める・・空がとてもきれいなのです)




2011年7月16日土曜日

Prayer Retreat


今日はRegentCollege(リージェントカレッジ)主催のPrayer Retreatに出席してきました。朝8時半から4時まで、講義、聖書朗読、祈り×3セット 最後に聖餐式とてんこ盛りの内容でした。
場所はSt.Helen's Anglican Churchで静かな住宅街PointGrayの中心から少し離れたところにある
アングリカンの教会でした。



リトリートのスケジュールは
9:00-10:00 祈りについての奨励
10:00-11:00 黙想と祈り(ヨハネの福音書11章1―46節)
11:00-11:30 分かち合い
11:30―12:30 黙想と祈り(マタイの福音書15章21―28節)
12:30―13:00 分かち合い
13:00-13:45 ランチタイム
2:00-3:00 黙想と祈り(ルカの福音書24章13-35節)
3:00-3:30 分かち合い
3:30―4:30 総括と聖餐式

となかなかてんこ盛り内容でしたが、聖書とじっくり向き合う時間が
たくさん取れて、本当にすばらしいリトリートでした。
講師はDennis Okholm師(Azusa Pacific University教授)
http://www.apu.edu/theology/faculty/dokholm/
Regent Collegeの夏季講座の特別講師をされている先生です。

最初の奨励を少しだけ紹介させていただきますね


まず、「祈り」について。私たちは1日の中の祈りを考えると、あまりにも日常の忙しさに縛られて、十分な時間を持つことができない。現代クリスチャンのもっとも大きな課題は「忙しさ」です。1日の間にいったい何回祈るでしょうか?ベネディクトの修道士たちは1日に3回、4回いや多い場合は7回、8回と祈りの時間を持っていました。私たちは朝起きた時に、目を覚ました瞬間に「この新しい1日は主が造られた(主が与えてくださった)」と覚えるべきです。
祈りはムード(気分)に左右されるものではありません。主のもとに立ち返る行為であって、祈りのなかでまずはじめに「主よ私の唇を開いてください、導いてください」と祈るのです。そして祈りは、私たちの生活の中心にあるべきです。今日1日を始める最初の祈りで「主よ、私は今日一日何をしたら良いでしょうか?」と尋ねるのです。私たちが毎朝歯を磨くのは、健康な歯を維持するためでしょう。同じように祈りはクリスチャンにとって習慣化されるべきもので、どんなに忙しい生活の中にあっても最優先されるべきものです。

次に聖書の御言葉を黙想することについてですが、いくつかのテクニックを紹介します。もちろん、あくまでも参考となる方法であって、御言葉の黙想は個人それぞれに合ったやり方を求めるべきです。
1.聖書の中のストーリーに自分自身を置いて(投影して)考えること
 具体的に言うと、あなた自身とストーリーの中の登場人物との関係を考えることです。
 「もし私だったらどのように考えるだろうか、どのように感じるだろうか?」
 「イェス・キリストは今の私の状況に対して何を言われるだろうか?」
 といった質問を自分自身に問いかけることです。

2.何回も熟読し、心に示されたことを思いめぐらすこと
 同じ聖書の箇所を3-4回繰り返し、静かに黙読する。
 次に先ほどの聖書箇所を黙想し、心に引っ掛かった言葉、フレーズを拾い出す
 (心に引っ掛かる、思い当たる、気になる箇所は、自分の心の反応だったり
  聖霊の語りかけを受けているところです)
 なぜ引っ掛かったのか?主は何を語られているのか考える
※ここでのポイントは、決して焦らず、答えを急がないこと。静まり、よく思い巡らし
 主のみこころを探ることが大切です。

私たちの生きている現代社会は、「行動」から「結果」をすぐに求め、「効率性」をとことん追求する傾向があります。聖書の言葉を黙想し、祈ることはすぐに結果を求める行為ではありません。黙想における、現代人の課題は「ただ座ってじっとしていることが難しい」ということでしょう。

(以上です)

・・・ディボーションの基本となる大切なことを教えてもらいましたが、リスニング力がまだまだ足りず、とっても教えられる例話や、心を刺されるような表現がまだまだ十分に現せてないです。。そのあとの(黙想+分かち合い)×3セットは、消化しきれないくらい沢山の恵みを頂くことができました。その内容は、まとまり次第、いつかシェアさせていただきますね。